偏差値が低すぎて全科目偏差値測定不能だった子を都内お嬢様中学に合格させた塾講師のたった1つの言葉。
===================================
アメリカのど真ん中で昔の恩師の事をふと思い出したら、色々と思い出した自分のルーツ。そうだ、私はOOだった。
「子供が勉強しない。馬鹿で困るんです。」
家庭教師をしている時にそんな相談を受けた。そんなお悩みを持つお母様方に送る
「私がスーパー馬鹿だった時の話」
=================================
◆母「あんたは受験してOO中学に行きなさいね:D」◆
それは私が小学校4年生だった時。突然そんなことを母は笑顔で言い始めた。
「えっ....あたし受験するの? 」
「そうよ。あと受験料高いんだから落ちたら許さないからね。うちは貧乏なんだから。」
えっガチで?嘘でしょ?って聞いたら、
「母親に向かってなんてこと言うの。明日塾の入塾テストだから寄り道しないで帰って来なさいよ。」
・・・・・唖然。笑
昨日までビワの木が生い茂るご近所のお庭に侵入してビワ泥棒して遊んでた悪ガキなのに....
宿題ちゃんとやったのいつだったけ?(焦
娘の私もどん引きの強引な流れでお受験することになった。
*********************************
↓ビワってこれです。これを盗んで食べるのが当時、最高にスリリングで美味しい遊びでした。ビワの木が生い茂る土地を所有されてるおじさんに「こらーー!ここは蛇がいるんだぞ!!噛まれたら死んじゃうんだからな!!」と何回も追いかけられました。笑 まるでサザエさんの様なご近所でしたが、実は私、東京育ちです。
*********************************
◆1mmも伸びていない棒グラフ◆
というわけで某有名お受験塾の入塾テストを受けたのだが、担当スタッフの営業マスクの端々から苦笑いがだだ漏れしてしまう程、酷い結果。テスト結果を各教科項目別に分析し、現在位置を棒グラフで表した【テスト結果と分析(仮*)】って紙をくれるのだけれども(注:そんなダサい名前ではなかったはず。念のため。笑)、何しろ得意分野ほど長く伸びるはずの棒グラフは1mmも伸びていないから、ほぼ白紙。
これを見てさすがの母も笑うしかない。
当の私は「OO大学合格 OOさん」と壁中に張られている紙やイチゴミルクが売っている自動販売機を眺めながら、ぼんやりと母と担当スタッフの方が話しているのを聞いていた。
その日、帰宅後の夕飯は私だけおかずが無かった。
◆一番下のクラス、そして一番後ろの席。◆
入塾を拒否されるかとも思ったのだが、そこはビジネス。
ちゃんと入塾はできた。
が。
その塾では、なんと成績順でクラスと席順が決まる。
私はもちろん一番下のクラスの一番後ろの一番端っこの席だった。
つまり、ビリ。
そして、そこはしばらく私の定席となる。
社会は特に致命的で、埼玉県がどこかも、神奈川県の形も知らなかった。
算数は足し算、かけ算もできたし、割り算もできた。でも受験では鶴亀算とか小学校の授業では出てこないような問題ばかり。もちろん解けない。
国語では「OOさんの心情をOO文字以内で答えなさい。」というから想像して答えたら、思いっきりバツ。
理科は小学校で砂糖を溶かしてカラメルを作った記憶しかなかった。
状況は絶望的。なのに私は「勉強したくない」と勉強から逃げる為の理由探しに必死だった。
入塾して数ヶ月経っても、私は一番後ろの席。しかも端っこ。
社会で50点満点中2点を取ったのを覚えてる。
友達もいなかった。
毎日早く家に帰りたくて仕方が無かった。
◆絶望的状況下、森先生に出会う◆
もうそれがいつだったかも忘れてしまった。
5年生の時だった。
いつもの国語の先生がお休みだったのか、夏期講習で特別だったのか...
いつもは上のクラスで教鞭をとっている「森先生」が一番下のクラスの授業に来た。
いつも通りあまりやる気のない私。
問題に目を通すと、全然難しい。
いつもより全然難しいではないか!!
森先生!!ここは最下位クラスですよ!!!!
と思ったが、なんだかヒゲがもじゃもじゃで怖そうなので頑張って解いてみる。
ダメだ。
できない。
大丈夫。私の席なら当てられない。
と白紙のままでぼーとしていた。
ら。
にゅうーーーーんと先生の首が伸びて、私の真っ白な答案用紙をじっと見ている!!!; ̄ロ ̄)!!
いつの間に背後に忍び寄ったのだ!!!!!!!
顔面蒼白で一生懸命解いてる振りをする。
そんな私に
「おまえ、次当てるからな。」
え”え”え”ええええええええええええええ
頭真っ白の中、頑張って答えを・・・とりあえず「答えと思えるもの」を書き出した。
「さてっ」
「難しかっただろう。これは一番上のクラスの奴でも殆どできなかった。」
「なんでお前たちにこれを解かせたかって?お前らも上のクラスと同じだけの頭を持っている。まだ結果が出ていないだけだ。同じレベルで練習しなければ一生このクラスのままだ。そんなの嫌だろう。下のクラスだからって、下のクラス用の問題を解く必要はない。本番はみんな同じ問題を解くのだ!!」
なるほど。
一字一句同じではないが、この様なことを森先生は仰った。
なんだかこんな自分でも認められている気がして嬉しかったのを覚えている。
「さて。最初の問題。山ちゃんに答えてもらおう。」
一斉に皆が振り返る。
【誰だ山ちゃんって。】
皆そう思ったに違いない。
40人程いたクラス。私は一番後ろの一番端っこでひっそり暮らしていた。誰も私を知らない。
しかも山ちゃん????
私、森先生と話した事ないぞ。なんでそんなに親しげなのだ。
...と思いながらも顔を真っ赤にして、震える声で答える。
「正解!」
おおっとクラス中がどよめいた。
顔を真っ赤にしながらも嬉しかった。えへへと机に向かって笑う。
今の私を知っている人は信じないかもしれないが、小学校当時の私はどちらかというと人見知りのシャイだったのだ。
「じゃあ次の問題も山ちゃんに答えてもらおう。」
え”っ。
普通は1人1つでしょ。
なんでそんな不公平なことを....と思いながらも答える。
「正解」
解説を付け加えながらも、大きな声でそう言ってくれた。
クラス中の視線が集まる。
もう私はゆでダコの様に真っ赤で蒸気を発していた。
「流石、天才山ちゃんだな。次の問題も解いてもらおう。」
天才。。。。。。???
何を言われているのか良くわからないが、それよりも....
問題3番。どうしても分からなくて空白だった。
「。。。。。分かりません」
天才と言われた直後の「分かりません。」
恥ずかしかった。
クラス中ががっかりするのを肌で感じた。
やはり私は馬鹿なのだ。
そう思った。
真っ赤だった顔はみるみる熱を失い、真っ青になった。
そう、私は馬鹿なのに、プライドだけは高かったのである。
みんなの前で恥をかいたこの状況に我慢できず、胃がキューと縮こまるのを感じた。
退出したい。だから塾なぞ嫌なのだ。学校なら私はそこそこできる方なのに。(私の小学校はどんなに良く見積もっても、所謂世間一般がいう頭の良い子は1人か2人しかいないようなところだった。)
そう思っていた時だった。
「りさこでも解けなかったか。」
「確かにこの問題は一番上のクラスでも解けた人は2、3人しかいなかった。」
「難しいな。この問題ではこのOO行目に注目してみるんだ。」
そう解説を始めた。
そして解説が終わると、
「山ちゃんありがとう。天才でも間違うことはある。分からないこともある。でも諦めないで頑張って考えるから偉いんだ。はい、3問も答えた山ちゃんに拍手!」
ビックリした。
解けなかったのに、なんだか褒められている。
拍手してもらってる。
なんだかよく分からないけど嬉しかった。
授業が終わって帰る時、階段で森先生とすれ違った。
「今日はよく頑張ったな。上のクラスで待っているぞ、天才山ちゃん!」
その日から私は天才になった。
◆天才、次第に成績を伸ばす◆
それまで友達もいなかった新しい環境で新しいキャラを手に入れた私。変わるのは簡単だった。
まず、天才なので勉強を始めた。
森先生が仰った通り、アインシュタイン、ピカソ、エジソンをはじめとし、世の天才は努力家でもある。従って、私も努力するべきなのである。
次に、友達ができた。
あの日から「天才山ちゃん」の認知度は驚く程あがり、友達ができた。
また、「りさ天才〜♪」というのが口癖のくせにまるでお馬鹿な「変な面白い奴」となっていく。小学生の中で「変な面白い奴」はアイドルである。森先生のお陰で私は人気者になった。
ちなみにこの「天才」。
どう見ても自分より下の奴、つまり頭の悪い子が言ってる分には嫌みにならないのである。
つまりこれは私にぴったりであった。
そしてこの新しくできた友達と勉強をはじめた。
勉強が楽しくなっただけでなく、1mmも伸びていない棒グラフを不憫に思った友達たちは競って私を助けてくれた。県の名前や列島の名前を覚える為の歌が入ったCDとそれが聞けるようにCDプレイヤーを貸してくれたり、県の形を覚える為に日本地図パズルを貸してくれたり、なんだか色々貸して貰った。
彼らとあまりにかけ離れてお馬鹿だった私。
自分より極端に下の人は助けたくなってしまう。これが人間の性なのだろうか。
また、私の発言回数が爆発的に増えた。
少しずつ答えが出せるようになってきたこともあるが、天才なのでとりあえず発言。
間違っても大丈夫である。天才は失敗を恐れないのである。しかも間違えれば、「お前馬鹿だなー!笑」と友達からの突っ込みも得られる。「りさ天才♪」といいながら天才ではないというボケキャラが定着し人気を集めていた私にとって、授業中に発言する事は一種のコミニュケーション手段でもあった。
勿論正解すれば先生方が「流石天才!笑」という風におだててくれるので、発言するに越したことはない。
最後に、粘り強くなった。
それまでは、「どうせ馬鹿な私には解けない」と一瞬で諦めていた私。
しかし天才になったからにはそんなに簡単に諦められない。
「天才なんだから解けるはず。」
と、ぎりぎりまで解答も見ず、自力で解こうと努力した。
そんなこんなで私の勉強時間は一気に増えた。
そう、子供は時に大人が驚く程単純なのだ。
「天才」という言葉は、それまで孤独だった私に塾での居場所を与え、ネガティブで「頑張ること」を放棄していた私に、無理のない形で「頑張ること」を強要した。
そして塾に行くのが楽しくなってから数ヶ月。模試の結果表の棒グラフが頭を出し始め、席もどんどん前に移動。
先生も友達も凄いじゃん!と褒めてくれ、私は有頂天だった。(実際は10点が30点、40点、50点になっただけなのですが。笑)
◆天才のその後◆
9から10に伸ばすのは難しくても0から7に伸ばすのは簡単である。
私の成績はみるみる伸び、それが楽しくて、どんどん勉強する。
【勉強が楽しい→答えが分かるようになって楽しい→褒めてくれるから嬉しい→もっと勉強する】
正のサイクルの完成である。
自習室で勉強するだけで「天才は今日も勉強頑張ってるな!」と褒められるようになったあの日から1年。6年の最後には上から2番目のクラスの最前列が私の定席になっていた。
また性格も変わった。
私は面白い変人キャラとして人気者になったことにより、それまでの根暗ネガティブキャラを捨てる事になったのだ。もう「どうせ自分は馬鹿だから...」と卑屈になることもなかった。
小学校でもその変化は現れた。
どちらかというと嫌われ者として過ごしていた私が、塾での幸せオーラのお陰だろうか。だんだん周りの対応が変わっていったのを覚えている。私の周りには常に友達がいるようになり、小学校最後の1年間は、中学受験しないで地元の中学に行きたいと思う程、楽しく充実したものだった。
「人生楽しい」
本気でそう思った。
◆飛べないカエルが空まで跳んだ◆
そんなこんなで楽しく受験生活を終え、無事第一志望の都内お嬢様学校に合格した。
森先生のお陰で、究極のポジティブ人間にもなれた。
私は今だに自分をある意味「天才」だと信じている。
あの時、なぜ森先生が私を指名し、天才と呼んだのか。
きっと私があまりにダメすぎて先生内で有名だったのだろう。
「どう山田を持ち上げるか」
職員室ではそんな話題が上がっていたに違いない。
「自分はどうせ馬鹿だから...」と全く自分に自信がなく、頑張ることを放棄していた私。
自信をつけてあげたい。そう思ったのか。
あの当てられた問題。よくよく思い返すと、最初の2問は非常に簡単な4択で、馬鹿でも分かるボーナス問題だった。そして私はあの問題を一番上のクラスが解いていなかったという事実を知っている。笑
まぁ、理由はどうであれ
あの「天才」という言葉が私の人生を変えてくれた。
私の両親は完璧主義者で、私はそれまでずっと「出来損ない」と言われて育てられてきた。
テストで90点をとっても「なんであと10点、そこでミスするかなー?」というような家庭である。
98点とか尚更である。「あぁ、勿体ない。」
100点だと「良かったね。(棒読み)これからもこの調子で!」
100点なぞ両親からすれば当たり前だったのである。
また、勉強することも当たり前である。
「勉強しない」のは罪であり、罰せられるべきであり、80点以下を取って帰ってくるなど一族の恥だった。ある日学校で40点をとって帰ったら親戚中に怒られた。
唯一おじさんが「いいんだよ、子供は馬鹿で。馬鹿でなんぼ。俺も昔は馬鹿だった。」
(↑彼も擁護はしてるものの「馬鹿」である事は否定していない)
と言ってくれたが、あまり嬉しくなかった。なぜなら彼は馬鹿ではなかったからだ。
小学校の時、書道で何回も金賞を取っていて、オールAの天才児だったとおばあちゃんはいつも自慢していた。彼が馬鹿になるのを許されたのは大人になってから。交通事故で死にそうになってからだ。
おじさんは馬鹿でも許される。おじさんは生きているだけで良いのだ。
私は違う。
馬鹿な私は存在を全否定されてしまうのだ。
そして、それを分かっていながらも頑張れるほどのハングリー精神は持ち合わせていなかった。(そもそも馬鹿と言われて「頑張って勉強しよう!」と奮発できる小学生はそんなにいないはず。)だから頑張らないことで言い訳を作った。「私は頑張っていない。だからできないのだ。」
「どうせ馬鹿だから頑張らない。」
「私は頑張っていない。だからできない。」
どちらも両親に対する私のささやかな反抗であり、意地であった。
そんな「頑張ること」を放棄した私は、子供ながらにおじさんのフォローを凄く冷たい目で見ていた。
頭の良すぎる両親も、高い期待も、私にとって苦痛だった。
そんな中、私をなんの根拠もなく「天才」と呼んでくれた森先生。しかも、その「天才」の壁は驚く程低い。何をしても私は天才だった。
私の家庭が『叱って育てろ』教育方針なら、森先生は『褒めて育てろ』教育方針だ。
この『褒めて育てろ』教育方針は効果抜群だった。
なにせ、今まで褒められたことなど殆どない。私は褒められることに飢えていた。
そして褒めてくれるのだから反発しようがない。
その頃既に反抗期の始まりのような態度をしだしていた私だが、森先生に対しては反発する理由が見つからないのである。だって褒めてくれているのだもの。
『「期待」を裏切りたくない。』
そんな思いがいつもどこかにあった気がする。
「天才」の称号を与えてくれた森先生に褒めてもらいたいし、そもそも天才と思われているなら、それを裏切ることはできない。そう思ったのである。
褒めることは良い意味でプレッシャーになるのだ。
叱る事もプレッシャーになるはなるけど、「頑張ろう!」というプラスの感情は中々生み出さない。
プラスの感情はネガティブ感情より遥かに簡単にプラスの行動を生み出す。私は自分の経験からそう信じている。
ちなむと、両親を責めているのではない。
私は長女なので、両親にとって子育ての全てが初めてだった。
今は自由奔放にやり続けてきた私を見て、両親も学び、「あんたが良いと思う事を好きにやりなさい。」というあまり高望みしないスタンスになった。
きっと私が小学生の時は、一流の淑女に育てようと気張っていたのだろう。
だが、カエルに「空を飛べ」と叱ってもカエルは飛べないのである。
逆にカエルは「俺に翼はないんだ」と卑屈になるばかり。
でもカエルに「お前鳥みたいに高く跳べるんだって!?!」って言えばカエルもその気になって高く高く「跳ぶ」ことができるかもしれない。少なくとも、幸か不幸か単純思考の私はそういう煽てに弱いタイプだった。
私を大空まで「跳ばして」くれた「天才」という言葉。
日本では自分の子供を「うちの子なんて...」っていうのは当たり前だし、私の子供時代は勉強しないと叩かれた。けど、どんなに叩かれたってちょっと親が目を話せば漫画を読んだり、ゲームをしたりするのが子供である。私の場合「勉強したよ!」の99%は嘘だった。(笑
そんな子供を叱るのではなく、なにか「期待してるよ」というメッセージを送ることは、時に1万回叩くより強い力で子供を勉強に向かわせるかもしれない。
もし自分の子が空を飛ばないと嘆いているなら、空まで跳べるように褒めてみてはどうだろうか。
意外と高く跳べるかもしれない。
初!!!!
初めまして、金魚です。
基本的に自分が世界を旅する中で感じたことをランダムに書いてみたいと思います。
もしかしたらそれは今日のことかもしれないし、1年前の事かもしれません。
時間軸などに捉われずに(笑)書いていきます!
プロフィールにも書いたけど、なんで金魚なのかっていうと...
「記憶力が弱いから」
wwwwwwwwwwwwwwwwwそれだけ。
このブログに書いていく事で、そう言えばそんなことも思ってたなーって思い出せればいいな♪って思ってます!